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日本人論

 

 

 

 

 


目次

はじめに

第1章     日本人論について

第2章     団地と社宅における権力構造

第3章     日本人の生活観

第4章     「旅の恥は掻き捨て」という諺

第5章     「集団」と言う幻想 

 

              付記 その1 付記 その1 「日本における政治改革の可能性」 (原注、 92年度版である。)

              付記 その2 付記 その2 日本の正しい風習について

              付記 その3 付記 その3 反宗教という危険な新興宗教について

 

              おまけ     原メモ

 

はじめに

 私が以下の文章を書くことを思い立ったのは、多くの先達が日本人の目から見た日本人というテーマに対して、貪欲とさえ思える熱心さで様々な分野に於て活動しその成果を発表してきた、そしてこれからも様々な日本人論が国の内外を問わず発表されるだろうという事実に触発されてである。中心から見たら陳腐なタワゴトに過ぎないであろう私の考え、日本人に対する見方というのも何かの間違いでそのような方々の役に立つということも無いとは断定は出来まい。一日本人としての立場から、その属する集団である日本人というものを見た感想、感慨、その他の思いや考えを否定することは例えにもあるように『一人の愚者の質問に百人の優れた学者が答えられないこともある』だろうという、企みもある。

 以下に記す文章の根底をなすのはいずれも、日頃の『経験観察である。勿論、私の立場やそのたの個別的事情から、読者の方々の見方とは根本的に異なるかも知れない。また、個人あるいは集団のプライバシーに関わる為に先達が行ってきた試みとは異なり具体的な事例を明かにするという手法は取らないつもりである為、「そんなことはあり得ない」と思われる事柄が述べられるかも知れない。その様な記述に達した時に、読者の方々には一つ考えてもらいたいことがある。それは『何故、私(読者)はそのように感じ、考える、のだろうか? 』である。また同様に、「全く同感」という記述に達したときも同じことを考えて見て欲しい。

 私がこれから述べる日本人論は、断定的な見方を記すものではなく、『私にはこのように見える。あなたにはどの様に見えてますか? 』という疑問符である。そして、この疑問符が読者諸兄にとって『日本人はどうあるべきなのか? 』、『日本という国家はどうあるべきなのか? 』、『あるべき姿に至るためにはどうすべきなのか? 』という疑問に至ったとき、私のこの文章に托した願いは成就される。

 以上、簡単ながら序に代えて述べさせていただいた。

 

 

 

第一章        日本人論について

 先ずは先達の方々への敬意を明かにしたい。浅学な私が知っているだけでも十指に余る方々が、それぞれの分野の先端の知識とともにその深く広い教養をもとに様々な日本人論を展開されている。これは狭く日本人によるものだけでは無く、ベネディクト氏の古典的な日本人論『菊と刀』をはじめとする外国籍の方々による日本人論、また、ハーン氏・日本名 小泉八雲氏の様々な民話の蒐集に基づく小説なども広く日本人論に含めると膨大な日本人論が存在する。何れも広く評価され、その後進に多大な影響を与え、また軍事・経済をはじめ文学・絵画・工芸の世界、引いては世界の市井の人々に影響を与えてきたと言える。

 私が展開したいのは、そのような高く大きな影響を人々に巻き起こす論ではなく、日本人の肌の感覚、市井の感覚に基づく日本人論である。ある人々の目には日本人の日本人による告発と映るかも知れないし、ある人々の目には常識論を述べているだけと映るかも知れない。ある人に取っては異質な日本が展開されるかも知れないし、ある人に取っては日常的な感覚の記述に過ぎないかも知れない。

 基本的には日常的な感覚の記述からはじめ、その日常的な感覚の背後にあるものを探り、日常的なレベルから国際政治の感覚にさえ通ずるものを抽出していきたいと考えている。普段何気なく、『当り前』と感じているもの抽出、分析、そして歴史的な背景への関連付け、根底に潜んでいる日本人に共通な心理的メカニズムに達することを目標として挙げよう。これには読者の協力を抜きにして成し遂げることは出来ない。読者の協力とは記述を読み理解し、記述されている事柄に対しての思索を行い、記述に対する評価を決めていくという作業である。この作業を私と共に行うことによって上から見た日本人ではなく、下から見上げた日本人論を構築していこう。

 

 

 

第2章        団地と社宅における権力構造

 日本の首都である東京圏においては住宅事情が良くない。これは日本人なら誰もが知っているであろうと思われる事実である。1991年における平均的サラリーマンの通勤時間は往復3時間程度である。一部の人間を除き誰もが住宅に関する不満を抱えている。住宅に関する不満は幾つかの項目からなっているが、代表的なのは『狭い』『高い』『遠い』の3点だろう。また、大概の家屋は壁が薄く、上下左右隣の部屋の会話・オーディオの音響が比較的に騒音の大きい昼間でも聴こえて来る。気をつけないと、知らず知らずのうちに隣の会話と干渉し合い、険悪な関係に陥ることが、ままある。また、この様な住環境においてはプライバシーなどは望むべくもない。隣の家の晩御飯はおろか夫婦生活さえも分かってしまう。逆に、隣の家の生活騒音が聴こえないと不気味、というのが普通の感覚だろう。

 この様な環境(つまりは個人的な情報、あるいは行動を取ることができない)においては、基本的には二つの選択しか許されない。

 一つは、聴こえてくる会話等を無視する。あるいは、聴こえて来ないものとして振舞い互いのプライバシーを尊重し合う。

 一つは、聴こえて来ることを肯定し、互いのプライバシーを共有し合う。

 何れか、である。

 平均的な日本人の行動はこの中間である。タテマエとして隣のプライバシーは尊重するというポーズを示すが、実質的な行動は他人のプライバシーに関して尊重していることを示す行動は取らない。

 つまり、面と向かってプライバシーを侵害していることを示す行動は取らないが、聴こえて来た生活騒音等に因って得た情報は利用する。具体的にはこれは以下の様な行動になって現れる。

 1.本人がさりげ気無いと思っている行動で、それとなく得たプライバシーに関する情報を示し、立場の有利を主張する。

 2.得た情報をプライバシーが侵害された本人の属さず、侵害した人間の属するグループでの情報交換の対価とする。

 3.侵害した側とされた側での利害関係の対立の際の交渉・あるいは攻撃材料とする。

 その背後にある論理は『プライバシーの侵害は、良いことでは無いが止めるだけの理由は存在しないし、社会的な交渉材料の入手等メリットが大きい』、更にプライバシーの侵害に対して講義された時の一般的な行動は『覗かれて困るようなことをしているのか? 』という論点のすり替えである。このような論点のすり替えが行われるのは、基本的に個人の生活というものが属する集団(この場合は地域社会)の中の一部であり、あとで述べるが日本人は基本的には個人と言う概念をホンネとタテマエの意味論の中で使い分けていること、また、プライバシーという概念は言わば罰則を伴わない法の様なもの、という基本姿勢を見ることができる。

 以上に述べたプライバシーに関する日本人の感性と論理は特に共同住宅で顕著である。同じ企業に属する家庭が同じ共同住宅で生活する社宅等では、以上に述べた行動に加えて、更にエスカレートした行動を観察することが出来る。

 暗黙の事実・衆知の秘密・ホンネ、とタテマエの2律背反という情報環境に加えて、夫の会社内での地位と収入という、家庭とは直接関係の筈の価値観の流入及び、家庭の評価と夫の会社内での地位とに関連するという思い、後に述べるが、日本人がもっている『人並』『世間並』という観念、『覗かれても恥ずかしくないように』という脅迫観念で飾られたその行動は涙ぐましくさえある。

 以上に述べた事柄を1対1の関係から、更に進めて集団対個人の関係に外挿してみよう。

 プライバシーの共有による、一種独特な一体感というのは存在し得ない。何故なら、前段階で述べたとおりに、集団内での位置の強化・他の集団メンバーとの情報交換の対貨・攻撃の材料としてのみの価値をもち、メンバーの共感を促す方向に用いられること(例えば、「お宅も大変だね、ウチの女房もうるさくてかなわないよ。家の場合だとクイモノでつるのが一番効果的だったよ。勿論、一言二言添えてさ。」などのような打ち解けた話しかけである。もっとも、この様な話しかけ自体は耳に入ってくる隣のプライバシーを第三者との情報交換の対貨として用いることよりも一般に無作法であり、個人の生活の侵害であると認識される場合が多く、既に他の要素(趣味を同じにしており、同じクラブに属するとか、同じ団地に住んでおり、10年来の近所つき合いがあるとか)による親交が無い場合は、まず100%見られない、と言っても差し支えないだろう。)に用いられるのが普通であるからだ。むしろ、第三者のプライバシーを共有することによる、幾分後ろめたいが数では勝っているから強い立場にあるんだという認識による”共犯者”的な集団意識が普通である。

 例えるならブルーバックス「集団の心理」等で述べれられている、世間とは隔絶された状況において、プライバシーを共有している物同士の親密さ、集団としての一体感などというものは、これらのグループんの成員間には存在せず、むしろ互いに競合して悪事を働いているグループ間に漂うであろう後ろめたさと「悪いことを開き直ってやっている」というような険悪な感情のみが、グループの成員間に存在することは、特記に値するであろう。

 実際に、筆者もこの様なプライバシーの意識の欠如、及びに「あんたの秘密を知っているのんだ。」という屈折した優越感をもった個体により、私生活並びに社会生活に実害をもたらされた経験をもつ。円で、初めて口にしたジョークに我を忘れているかのように繰り返されるその様な行為には、閉口した記憶がある。

 以上の様な行動とその背後に潜む心理的な機構は、勿論、日本人特有のものではない、と思われる。外国製のホームドラマでも、繰り返し「良くない隣人」の姿として、ユーモラスに描写される、この様な行動並びに行動をとってしまう人間の姿は現れる。が、明白な違いがあるのは、そのようにして入手されたプライバシーが議論、並びに社会内における優位性の確保に用いられるかどうかである。勿論、選挙・社会的に高い地位にある個体に対する攻撃として、スキャンダルの構築・プライバシーへの攻撃が行なわれることは疑うべくもな事実であろうが。

 日本人社会の中で僅かな期間でも生活したことがある、人間にとっておなじみである「陰湿さ」は、このようにして形成されると、言っても過言ではなかろう。

 多くの日本人は自分の所属する小集団に対して束縛(この束縛は、行動・弁論のみならず思考においても同様であり、服装・職業選択・食事・その他全ての個人の行動に結びつけられている)されているが、その様な束縛の鎖をなすのは、且つての所属していた小集団からの社会的な攻撃であり、その攻撃に用いられるのは以上の様なプロセスをへて入手された個人のプライバシーであることは、改めて言うことはないであろう。

 他の日本人社会(日系と呼ばれる日本本土以外の土地で生活する人々の社会)において、このような「陰湿さ」が存在するかどうかは、筆者の経験から判断することは出来ない。だが、しかし、以上の「陰湿さ」というのが、「精神的な貧困」と「歪んだ絆意識」の産物であることを考えるなら、これは充分に「日本的な陰湿さ」を内包していることも考え得る。

 加えて、この様な「日本的な陰湿さ」が、社会・企業内における個人の評価・幸福の度合(この国においては、プライバシーの欠如・住宅事情・個人攻撃に使用されるプライバシーの分布の度合など、他人からの影響を受けない行動の自由というのが、個人の幸福の度合と大きく関連している。これは事実である。よって、個人の金銭的な収入などで可処分所得・個人購買力が増加したところで、その影響が他人からの社会的な攻撃を受け易さよりも小さいため、より一層の欲求不満を産むだけであることも、事実である。これに関しては、章を改めて記述する)に大きく影響している。

 つまりは、野犬の群の中で食事を望むものは、野犬の群を遠ざけておくに足る、何かが必要とされるのである。さもなければ、食物を手にする度、口を開ける度に、野犬の攻撃に晒されることになる。野犬には別に餌を準備した所で、更に野犬の食欲を増す始末に終る。

 「日本的な陰湿さ」・プライバシーの意識の意識低名意識的な欠如と開き直りによる典型的な日本人の行動というのは、互いに食らいつきあり、互いに相手を自分の餌に使用と相荒そう野犬の群の中の一匹、である。この章の題名として挙げた「社宅と団地に置ける権力闘争」は、野犬の群の行動と非常によく似ている、と言えるだろう。但、この野犬は人が頭の中で想像する「野性に満ちた」とか「凶暴な」とかいう形容詞がふさわしい、実在しない「野性の野犬」である。現実の動物は決して、このような振舞いはせず、自分達のグループ、あるいは同種のグループの振舞いに似た、「社会的に容認された」行動を取るのが普通で有ろうと、思われる。彼ら(あるいは彼女ら)の振舞いは、実在する動物に例えるよりも、想像上の生き物、日本仏教が生み出した「餓鬼」、地獄の亡者に例えるのがふさわしいだろう。

 

 

第3章        日本人の生活感

 夕焼け小焼けの赤蜻蛉

 筆者が学生の時の英語のテキスト(このテキストは日米の文化の違いをテーマとした、小論のオムニバスという形式だったのだが)の中で、日本人は「赤トンボ」の唄(冒頭で一節を記載した方)を好む、という文があった。朧な記憶ではこれがその章の読解力のテスト問題になっていたと思うのだが、果して現在の日本人でこの「赤トンボ」を間違えずに最後まで唄う(音程・リズムなど、音楽的な素養はこの際無視する)ことが出来る人間が何人いるだろうか? 音楽の専門家は除外するとしても、この「赤トンボ」の叙情性をよしとする人間が何人いることだろう?

 かつて言われてきた、日本人は自然との調和を好む、などというのは既に神話、と化してしまっているのではないだろうか? そうでは無い、と言われるなら、あなたの住んでいる町の街路樹を眺めて季節感に浸ったという経験を、思い返すことが出来るだろうか?

 自然に近い日本人の生活、などというのは、もう過去の話しである。

 多分、日本という国と日本人を紹介する文章の中で述べられている日本人像は、現実から遠くかけ離れている過去の古き良き日本と日本人の記述が用いられているのではないだろうか? ナンセンス(この言葉ももう既に死語になって久しいが)である。

 今、一つの例として、地方都市でサラリーマンをやっている人間を考えて見よう。彼が自然、に触れることは1年を通じて無い、と言える。家の軒先に風鈴を吊すかどうかさえも、疑問である。彼の生活圏には自然と言えるもの、は、存在しない。護岸工事によって両岸を固められ、生活廃水の配水管として名前と橋だけを後に残した小川の残骸と、立ち入り禁止の芝生の中に植えられている草と樹、公園はほとんどコンクリートで固められており、住宅街の中の僅かな小公園に人の足で踏み固められた土が存在する程度である。何かの機会でも無ければ、自然を売物にしている遊園地や家庭菜園へと足を向けることも無いだろう。

 実際に、赤トンボが空を飛んでいることを見た、という経験さえも下水からの異常発生などという事態でもなければ、無いという状態では、「赤トンボ」という唄からは、叙情性よりもむしろ「クライ」、「オモグルシイ」などという感想を受けるであろうことは、想像に難くない。

 現在の日本人にとっては、かつての日本人というイメージは、現在活きている日本人達の目から見てもエキゾチックな、多分、現在の東南アジアのド田舎(東南アジアが田舎という訳ではない)を眺めるのと同じ様な存在に映ることだろう。自分達の先祖や祖先ではなく、「未開の民族」を眺める様な気分に陥るであろうことは、確かだ。

 民族としてルーツを痕跡的に残した状態、現在の日本人というのは、生活感、生活というレベルにおいては、「無国籍」というよりも「無民族」になっているのではないだろうか? 勿論、現在の日本人に似た民族が存在しないであるなら、全く新しい方向に変化した、というだけのことであるし。それが、望ましいとか望ましくないとか、いうのはこの文章の扱う予定の範囲を超えている。

 この章で明確にしたいのは、現在の日本人と言うものはかつてそうであった日本人というのからは、かけ離れてしまっている、ということである。多くの本で語られてきた日本人というものとは、また、異なった存在に変貌しており、新しい日本人像というものが構築される必要があるのではないか? という、疑問の提示に過ぎない。

 かつて存在したと我々日本人が思っている、『自然を愛し、虫の声に耳を傾け、月をみて人間の世の無常を思い』という「かつての日本人像」というものが、実在したかどうか? については、この文で扱うつもりはない。それはむしろ、歴史の研究家や万葉・平安・室町・鎌倉・戦国・安土桃山・江戸・明治・大正・昭和(この分類のしかたが正しいかどうかは、さておいて)文学の研究家の仕事であろう。「かつての日本人像」というものが「かつて望ましいと思われていた日本人像」であることは、有り得ることであるし、庶民の生活感からはかけ離れた「記録を遺すことが出来た階層がかつて望ましいと思っていた日本人像」であることも、またあり得ることであろう。

 

 第4章 「旅の恥はかき捨て」という諺

 日本人がよく旅先で口にする諺に、「旅の恥はかき捨て」というものがある。これは大抵の場合、犯罪者気分と共犯を持ちかける気分の混合した精神状態で口にされる諺である。旅先でゴミを捨ててはいけない場所でゴミを投棄していく時、その他、自分のホームタウンでは無い場所、自分を知っている人間のいない場所でイケナイことをする時に口に出される諺である。

 その意味は、「自分の素性(個人的な情報)が知られていない場所(旅先)では、多少(?!)イケナイことしても、自分の生活には影響は出ない(つまりは、誰からも非難されないし、脅迫(!)されることもない!)というようなことになろうか?

 多分、本来の意味は旅先で再び訪れるかどうか分からない場所でかいた恥はそそぐことが出来ないから、自分のホームタウンで振舞うよりも注意を払わなければならない、という意味であった筈、と筆者は考えているのだが?

 何故この諺が本来の意味を失い、現在一般的に使われるような意味に変化を遂げたのか? それは、第2章で述べたプライバシー意識の欠如、と他人のプライバシーを知ることは自らの権力と集団内の地位の強化に結び付くという社会生活の特性を念頭に置くべきであろう。

 このことは日本人が海外旅行に抱くイメージ、海外旅行好きという習性、その他の様々な特異な行動により、傍証が得られるであろう。例として、海外旅行にでた「若い女性の行動」、「中高年の男性の行動」何れも『イエローキャブ』

・『バイシュンツアー』として国際的に知られている行動であるが、それらの行動の基本的な動機となっているのは、日本国内において彼らの行動が過剰に抑制されている反動であると見るのは、あながち的を外した推論ではないと思われる。

 日本人というものは過剰なまでの他人からの干渉・抑制・抑圧の中で生活している。それらを意識するとしないとに関わらず、彼らの精神生活・言語・日常の生活に至るまで他人の目を意識せざるを得ないという前提の元に彼らの全生活(性生活から話し方、服装、職業、全て)が営まれている、と言えるだろう。

 であるからこそ、旅先で自分の生活に対して他人の干渉・抑圧が存在しないという条件に置いては過剰な迄に解放され異常な行動に走る、のであろう。であるからこそ、彼らは他人のプライバシーに対する侵害という罪悪感を抱くこともなく他人の私生活に対する干渉を、行なうことが出来るのであろう。

 日本人の精神構造において良心とは自分の心の中に存在するのではなく、現実に自分の生活の周辺に(職場と住居周辺の地域社会)存在し自分のプライバシーを侵害して脅迫される可能性のある他人のことである。彼らは罰を受ける恐れがなければ他人のモノを盗み・破壊し・他人の権利を侵害することに対して抵抗無く自分の「権利」を実行する、だろう。彼らの行動を制約しているのは単に、他人の目であり、自分の行動に対する罰だけである。

 つまりは、彼らの行動はキチンと道徳というもの、自分の権利と義務という社会人としての自覚をもたず、躾の終っていない『子供』のそれと、ほぼ同一であると言っても決して過言ではないだろう。

 日本人自体が『子供』であるという仮説は、「甘えの構造」(参考文献参照)という、先達の分析ともこれは符合する。日本人はアホロートルなどと同様に精神的な部分においては、子供のまま大人になったある種の奇形であると、言える、かも知れない。

 『子供』的(本当は、「ガキ的」という言葉の方がよりピッタリ来るのではあるが)な精神構造が日本人の特徴であるという仮説は、日本人の様々な行動を説明するのに非常に優れた仮説ではあるが、それについては次章以後の章で各々の行動と分析を順次行なって行くつもりである。

 「日本人は過剰なまでに、他人の目に晒されている(他人からの抑圧・抑制を受けている)」ということを先に述べたが、そこに成立するのは「個人の欲求・欲望とそれを充足させるための行動対社会(他人)の抑制・抑圧(邪魔)」という図式である。日本の商習慣・会議等に置ける慣習として根回し(この単語は既に英語として定着したと聞いているが...)等の事前の個別な交渉が存在するが、これらの慣習は、「日本に於て自分の欲求・欲望を充足させるためには、事前に他人の干渉・抑制・抑圧を排除しておくということが、なによりも大切である」という状況が生み出した慣習なのではないだろうか? 

 日本に於て個人(あるいはある集団)が何か行動(個人・集団の欲求・欲望を充足させる行動)を行なおうとする場合、事前・事後に連絡及び欲求・欲望の充足させる為の利益(ここで欲求・欲望を充足させる為の対称という意味で”利益”という言葉を用いている)の分配が行なわれなかった他の個人・集団は「自分が邪魔することが出来るという権利を行使しなかったという理由で、その個人・集団を攻撃しても構わない」という、認識が存在する。

 よって、欲求・欲望を充足させようと思う個人・集団は自分がその様な意図をもっていることを可能な限り隠し、隠すことが出来ない相手に対しては事前又は事後に連絡し・利益の分配を行なう、という行動を取らざるを得ない。この認識が個人に対する過剰なまでの他人からの干渉・抑圧・抑制を招く直接的な動機となっていることは言うまでもない。

 

 

 

第5章       「集団」という幻想

 

 日本人の意識調査は幾度となく行なわれて来ている筈、である。それらの調査「アンケート」の中から幾つもの流行語が生まれ、そして忘れ去られている。決して、それらの言葉が示す「意識」が無くなったわけでも、それらの「意識」の原因となっている事柄が時の流れの中に風化してしまった訳でもないことが、多分に見受けられるようだ。

 「1億総中流意識」という言葉もその一つであろう。現実には自分の生活のレベルを比較する適切な対象が有る訳でもなく、自分の世帯以外には親兄弟の生活レベル位しか正確には知り様がない筈、なのではあるが、自分の世帯における生活レベルは中流である、とこの言葉を生み出す契機となった調査の対称者達は考えているようである。

 日本人にはプライバシーという意識は存在せず、入手した情報の正当性や入手した方法の妥当性には頓着せず、他者に対して有利な立場を得るのに使用できるなら良心の仮借も躊躇もなくそれを行使する、というのは、前記した章の中で述べたことがらではあるが、それに結び付く「個人対社会の情報戦」における勝利によって得た情報と云うものがこの「自らを中流に置く」という態度に現れている、と云えよう。

 勿論、日本に住む社会人としての常識で、「飛び抜けていることは危険である」という、一般的な処世におけるセオリーが、彼らの脳裏を稲妻のごとき輝きと素早さで駆け抜けたことを云うまでもないだろうが....

 また、この国に限らずではあるが、「多数派に属することは、正義であり力でもある」ことと、この国の常識の一つでもある「なあなあ」の倫理に基づき他の人間がまた同様に行動することを知っていたということも、強力な理由の一つであったに違いない。

 以上に述べた事柄には幾つかの、「日本人なら当り前」的な論理展開が含まれている。箇条書にするなら、それらは、

 「集団の行動は個人の指向の集積である」、

 「各個人は集団としての指向に対して明確な判断基準を、自分自身の価値基準とは別個にもっている」、

 「個人の行動は集団としての指向の平均を目指す」、

 という3つに集約される。

 それぞれの個人の行動はよって、始めから議論の余地なく決まっている、のだ。ということは、集団としての行動もまた、問題が提起された時点で既に定まっており、『常に本当の問題』というのはそれをどの様に現すか、なのである。

 

 

 

付記 その1       「日本における政治改革の可能性」     (原注、 92年度版である。)

 

 まず、第1に行なうべきは、政治の形態の抜本的な改革であろう。

 民主主義は、頭が悪く、自覚を持たず、思考能力も批判能力も善悪の観念も持たない集団においては最悪の政治形態である。現在の日本の現状を鑑みるに、衆愚政治そのものといっても良いレベルである、と断言できる。草の根レベルからして既に腐っているものが、その反対側の末端においては、その腐敗と愚かさの集積とならずにまともな思考・行動を選択し実効できるようになると考えるのは明かに、間違いであろう。むしろ、愚かしさと腐敗の度合が選挙という拡大手段を通じて濃縮され、最終的な末端においては、腐敗と愚かしさの度合は拡大され濃縮され、どぶ泥のごとき腐臭を放ち、触れるもの全てを腐敗させ、愚かにするというような状況になると考えるのが、だとうであろう。

 草の根レベル、あるいは個人のレベルにおいて、その愚かしさと腐敗を排除し、残った良いものを集積させる方法こそが、日本において、政治改革としてとられるべき方法であると、考えられる。

 その具体的な手段としては、普通選挙を放棄し、選択し、資格が認められた人間のみが政治に関わることが出来る、とすべきであろう。これは、また、ビジョンをもたず、これからの日本が取るべき方向及びに、責任を厄介に感じている人間の負担を無くし、単なる不平や不満を単なる不平や不満で終らせ、好きなように彼らの大好きな悪口を口にする自由を彼らに保証することにもなる。責任を持たないことが明確になった人間が、責任のない事柄に関して意見や見識を述べることは、邪魔であり騒々しくはあるが、たあいのない子供の騒ぎとして、責任ある大人には見えるであろうからである。むしろ、責任を自覚し、思考能力と批判能力を兼ね備えた大人にはそのような無責任の子供の意見を反面教師又は、避けねばならぬ方向の示唆として、役に立つのではないかと思う。

 選挙権は、基本的な人権として、現行憲法によって保証されており、また世界の趨勢からも、基本的な人権(国家レベルでは自決権、個人では自然権の概念に基づく人権)として認められているが、これを他人に与える影響という観点から制限し、思考能力と善悪の観念と批判能力を失っておらず、妥当な思考が出来ると証明された人間にのみ自決権に対する参加を認めるべきであろう。

 民法において、禁持産者として憲法で認められ世界の趨勢として基本的人権の重要な一部とされている『財産権』の制限が行なわれており、社会的な承認を得ているのに対して、何故、財産の私有よりも影響が大きく、公共の福祉に直接的に関わりをもつ『自決権』が軽視され、制限されていないのか? 私には大いに疑問である。自分自身の財産をもつことを禁じられている人物、自分自身の財産に関して妥当な判断が出来ないと判断された人物が、政治に対する参政権、社会の自決に関しての参加を認められているということは、私には矛盾に思える。自分自身の財産に対しては妥当な判断は出来るが公共の福祉については、妥当な判断が出来ない、自分の財産を基準にして判断してしまう人間にたいしては、禁参政者として、公共の福祉並びに社会の自決に関して影響を与えることを制限するのが、スジだろうと、私は言いたい。

 何故、上記した、自分の財産のことしか考えられず、公共の福祉について妥当な判断を行なうことが出来ない人物を、政治から、社会からパージしないのか? かような人物が社会においてある程度の割合を占めている場合には、妥当な判断が、かような人物の意見により否定され、望ましくない方向へと社会が動いてしまうことが、現行の普通選挙に基づく政治機構をもつ社会においては、しばしば、あまりにもしばしば起きてしまう。

 この弊害を防ぐにもっとも簡単な手段は、財産権の制限と同様な参政権の制限であり、資格性にすることであると、私は主張したい。

 かような人物を教育(洗脳ではない)し、責任を自覚させ、思考能力と批判能力、善悪の判断能力を身に付けさせるのは、決して容易なことではないと考える。それよりは、パージしてしまうのが、容易であり、社会に与える影響も小さくて済むだろう。

 形態としては、貴族制あるいは、古代ギリシア、ローマで行なわれた、市民と奴隷(この言葉で受けるイメージは古代ギリシャ・ローマの奴隷市民とは異なっている。参政権を持たずその他の人権に制限が加えられている市民を奴隷と呼んだと考えるべきであろう。)という2つの市民層からなる制限付き民主主義、元老制、内閣元老制(寡頭制の時のローマの形態)、あるいは、つい最近までの、スイスにおける制限付き民主主義、などが、その政治形態の例となろう。性や財産や世襲により参政権が制限されるのではなく、資格試験により参政権を得る、という点が、根本的な違いである。

 又、財産によって、制限が加えられるべきではあろう。その際には、財産の多いものは参政権に制限が加えられ易いというように、参政権による影響力はその他の影響力との兼ね合いで一人の人物に、財産による影響力と名声による影響力と参政権による影響力とうの様々な分野の影響力が集中することがないように、トータルで個人の影響力が等しくなるようなハンデキャップが加わえられるべきであろう。又、参政権は収入をもたらし、生活の保証となるべきであろう。金銭による買収に対する抵抗力を増し、安売りによって政治・社会の自決権並びに公共の福祉が軽んじられることがないようにする為である。

 根本的な改革としては、なによりも草の根レベルでの腐敗を防ぎ、公共の福祉と社会の自決とが優先される土壌が醸成されることが必要である。土に不純物や毒物が含まれているなら、その果実にはそれらの毒物や不純物が濃縮されていることになるだろう。あまりにも、子供めいた思考や批判、ビジョンが幅を効かせるようなら、その影響を排除しなければならないだろう。

 現在の日本においては、参政権を持つ良識ある大人というのは、その存在を疑われるUMA程度しかいないのではないか? というのが、私の認識であり、金や労力は出させても、口は出させないのが、広く世界の、引いては日本自身の為ではないのか? というのが、提言出来る精一杯のところであろう。

 

 

 

付記 その2 日本の正しい風習について

              「日本人も意識していない日本式コミュニケーション」

 

 日本人は、全て他人が自分と同じと考えています。

 彼らの日常的な感覚では、社会のあるべき姿や利益の対立が無い場面においての意見は全ての日本人の反応が同じであると考えております。

勿論、例外はあります。彼ら、正しく日本式の生活・考え方をマスターしている日本人達が好んで『非日本人』であるところの人間を指し示すのに使う、「ガイジン」、しばしばこの言葉に『侮蔑』あるいは『差別的な意味合』を付け加える為に音節を倒置して「ジンガイ」(これは、日本の言葉では「人外」、人では無い化物を指し示したりする言葉であり、「人外魔境」と言えば居住している人間がおらず化物が出没する処という意味合いに成ります。)と彼らに呼ばれる人間がそうです。

 日本人ならば同じ考えや意見を持っていて当然であり、外人となればこれは日本人とは全く異なる考え方を持っていて当然であるというのが、一般的な日本人の生活感覚です。

 この「ガイジン」の例外は、非アングロサクソン系(つまりは、非白人・カラードと呼ばれるタイプの外人)は、日本人よりも下の位置にあり、犬や猫などと同じ、という扱いになります。

 つまりは、一般的な日本人の生活感覚では、自分と異なる考え方や意見というものは、ガイジン(白人)のものであり、非白人である外人は最初から意見やものの見方などという人間らしいものは最初からもっていない! ということです。

 彼ら、日本人の感覚ではこのように明かな偏見(それも、非常に強度であり、しばしば、彼らの行動や言示に背後に潜む劣等感といわれの無い優越感という形で現れるのですが)は、当然、存在しません。日本人の中では、それを他人の感覚として気付く人間が存在する筈がないのですから、当然と言えば当然の事柄ですが。自分だけで自分の偏見に気付くには、思慮と努力(あまりにもしばしば、ノイローゼに近い状況・自意識過剰に人を追い込んでしまう程ですが)が必要で、大抵は人から指摘されてそれに気付くの普通です。同じ考えをもつ人間だけで日本人というものが成立しているのですから、他人の偏見に気付く筈はありませんし、自分の偏見を指摘されることも、ある筈がありません。

 彼らの行動や言示を観察し、その背後にあるものを考察すると、彼らの偏見は大抵のものや人間に向けられており、彼らの常識は偏見によってのみ成るといっても過言では無い程です。

 この文章では、彼らの生活の中に見られるそのような偏見の一つ、「日本人は全て自分と同じ考えだ」という偏見に焦点を当てて、筆者自らが日常的に経験している、日本人の不可思議で幼児的なコミニュケーションについて考察して見ましょう。

 

 「日本人は曖昧を好む」とは日本人自身も好んで口にする言葉ではあります。これは嘘です。

 日本人はダブルミーニングと皮肉で自分の感情を表現しますし、その感情による立場の明確化により「誰が主導権を握るか」「意見の決定権を持っているか」をハッキリさせることにより、コミニュケーションを円滑にするのを常としています。この点に関しては、「曖昧さ」など入る余地は、全くありません。

 二人の日本人が話しをしている時には、方一方が「話し」・「決定」する側で、もう一方が「聞き」・「従う」側です。勿論、話しの流れによってはこの関係が逆転することはありますが、その場合でも、「話す」側と「聞く」側という二つの立場が無くなることはありません。

 そうです、驚いたことに彼らのコミニュケーションというのは、全てと言っても決して過言では無い程に、このスタイルに忠実です。彼らのコミニュケーションの形態として、対等の二人が互いに意見を交換するという形態は存在しませんし、自分が優位に立っていると自覚している人間が他人の言葉を考えるということは『絶対に!!!』しません。

 彼らの生活感覚では、「上」と「下」というのが絶対的に存在します。それは、彼らの言葉である日本語に組み込まれているメカニズム(自分を現す言葉の選択で、上下が決まってしまうし、文末の表現によって、自分が相手をどう捉えているかが明確になってしまう。これを避ける表現は日本語には存在しないし、日常会話では不自然な表現になってしまう。)と歴史的な経緯により培われ、日本人の一部に成っているといっても過言ではないでしょう。

 上の人間が「話し」・「決定し」、下の人間が「聞き」・「従う」というのが、彼らのスタイルであり、彼らはそれに気付かずにコミニュケーションを行なっていますし、それが『当然』だと、考えています。

 日本人のコミニュケーションにおける「曖昧さ」というものは、実はこのスタイルへの漠然とした自覚によるものも、実は、多分にあるのです。何とか、このスタイルから脱出したいという願いと責任を負う羽目には成りたくないという子供願望が彼らの曖昧さの主たる原因となっているというのが、「日本人は曖昧を好む」という言葉への筆者の、現在のところの解釈(又、何かこの解釈を覆すような事例を観察すれば修正するかも知れないことを、明かにしておきます。)です。

 

 ところが、です。この日本人のコミニュケーションにおける上下関係は、しばしば逆転します。この逆転というのが起きるのは、下であった筈の人間が上であった人間の「弱み」を口にして、上であった人間がその「弱み」を「弱み」として確認した場合というのが、この逆転が一番多く見られます。

 つまり、日本人は日常的に他人の「弱み」を握って、それを基にして互いに「ユスリ合い」、「ユスリ負け」た方が、おとなしく相手の言うがままに「聞き」・「従う」方になる、という『暗黙のルール』に従って、実は日常的なコミニュケーションから始まる、様々なコミニュケーションを行なっているのです! 二人の日本人が会話しているという場面においては、ですから基本的には二つの状況が存在し得るだけです。

 一つは、一方が「話し」・「決定し」もう一方が「聞き」・「従う」という安定した状況で、双方ともそれを認識し、認めています。

 もう一つは、双方ともに「ユスリ合い」この関係において、主導権を握ろうと闘争が行なわれているという状況です。

 しばしば、日本人の社会においては起こることではありますが、この日本人のコミニュケーションにおいては欠かかすことの出来ない「ユスリ合い」に置ける敗者は、この闘争の敗者のみならず他の人間からも「同じネタ」でユスラれ、結局、コミニュケーションの場において最下層へと追いやられることがあります。これは、あいつの「弱み」はあれだ、という情報が裏で流通することによります。

 「日本は儒教的な道徳観をもっている」というのは、筆者の経験からは嘘っぱち! です。日本においては、そのような体系付けられた道徳観などというものは、極めて一部の人間の間において存在するだけです。この「ユスリ合い」というルールに乗っ取り、しばしば、馬鹿な高校生や中学生が、老人や社会的な身分を認められている人間よりも威張っていること、そしてそれを社会が認めるということが、あまりにもしばしば、起こります。そこには体系的な道徳観念や儒教的あるいは道教的な、一般には東洋的と言われる価値体系は存在していないか、全然考慮すべきものとは認識されておりませんし、キリスト教的な博愛主義的価値体系もイスラム教的な価値体系も、凡そそのような価値体系は存在していません。存在していたとしても、極めて限られた人間が内に秘めているだけで、表に出すことは「ユスラれるネタ」を一つ世間に提供するだけとほとんど同一であり、その上でなおそのようなモノを表に出せる程強い人間は、日本人には極めて希でしょう。

 以上の2点から、日本人を相手にして上手にコミニュケーションする秘訣というものが明かだろうと思います。

 1)相手の私生活や日常の振舞いなどの「噂」を集め、「ユスリ」のネタを豊富にもっておく。

 2)相手の「ユスリ」を無視するか、自分の「噂」以上に強力な「ユスリ」の「ネタ」を準備しておく。

 3)何でも無いことでも、「ユスリ」のネタと出来るように、「フレームアップ」、「イイフラシ」に協力してくれる、『友人』をもつ。

 4)ユスリのネタの収集並びに、噂の伝播を有効に行なえるようなネットワークを構築しておく。

 5)ハッタリ(ブラフ)であっても、ヨワミを認めたととられるような態度はとらず、常に相手の弱みを握っているんだぞ、という態度で接するようにする。

 等、などです。

 筆者の経験では、老若男女の区別無く、『ユスリかけ』、あるいは「このネタならお前も俺に従うだろう」という『テスト』を行なう、あるいは行なおうとする日本人に、うんざりする程、出会っております。それは、筆者が負っている責任や能力、及びに彼らが負うべき責任等には、一切関係がありません。日本人にとっては、『ユスルことが出来るなら、俺の方が偉い』という価値観のみが全てなのです。

 体系的な価値観を持たない「社会」において、「利害の対立しない問題について、他の成員が自分と同じ考えである」という偏見を抱くというのは、奇異に聞こえますし、その偏見に相反する事例を認識していないというのは尚更奇異に響きます。

              To be continued...

 

付記 その3       反宗教という危険な新興宗教について

 恐らくこの20世紀末の日本において,もっとも危険な宗教は何かといえば,それは「反宗教」という名の新興宗教だろう。無宗教論者や反神論者というのではない.全ての宗教を否定するという教義をもった,神殿や聖典を持たない宗教なのだ.

 彼ら(勿論,この宗教の信者には女性も多いが,以後は男性の集団として扱わせてもらう.性差別を肯定している訳ではない,単なる文体の都合である)の基本教義は極めて単純である.「宗教の匂いをしている全てのものを否定せよ.宗教の匂いをさせている全ての人間を否定し,自らの足元にはいつくばらせろ! 」と,その教義をまとめることが出来るし,これが全てである.

 最悪なのは,彼らが自分達は最も危険で排他的な新興宗教の信者であることを自覚しないで行動(彼らの教義は非常に単純明解であり,教義を基に考えさるということは,その教義に反する行ないである,為に無思慮・無遠慮・非常識な行動をしばしば行なう)することであろう.

 彼らの行動は,しばしば,宗教弾圧の最も厳しかったであろう時期の敬虔な信徒を思わせる.

 彼らの具体的な反応は,大体以下の様に行なわれる.

 「ハン! 宗教だって? 頭がおかしいんじゃないか? そんな胡散臭いものを信じてるのかよ! 何だって,そんなバカなことやってるんだよ? 絶対,やめさせるか,それでもヤメねんだったら,みんなして苛めてやろうぜ! 」

 ちなみにこのような反応は,新興宗教に対してのみではなく,どの様な宗教に対しても敬虔さを現す人間になら宗派や教義に関わらず,起こる.

 先のフレーズを耳にして,思わず自分の宗派を盲信している敬虔な老婆の現すであろう反応を連想した人間が,恐らくは居る筈である.私もそのように思う.不思議なのはそのような,盲信が「反宗教」というものに捧げられており,「反宗教」の教えを広げ・「反宗教」という宗派で統一する為には,非常識・無思慮・無遠慮・時には反社会的な行動にでるのも辞さないという点であり,「反宗教」もここまで来ると一つの危険な宗教である,と返答すると傷つく点である.

 ついでにいうと,彼らは宗教に関してなんらかの経験をもっているかというと,答えは皆無である.友人がなんらか宗教に入信して嫌な思いをしたとか,自らの無宗教(ちなみに,日本人は,小数の例外を除き,歴史的経緯から,ある宗派の仏教徒でありある神社の氏子であるという,2つの宗教の信徒である.これは,家の宗教ということで,暗黙裡にそうなのである.)故に嫌な思いをしたとか,いう経験はもってはいないのが常である.彼らは,ほとんど例外無く,正月には神社に参拝し,子供が生まれたなら宗教的に定められた日付に従い神社へと参拝し,死亡したなら仏式の葬式を行なう,という日本人一般の宗教的な行動をとるのではあるが,宗教めいた事柄・人物に対しては,途端に残虐な弾圧者という態度をとるのである.「反宗教」の教義を信じる人物以外は,人間ではない,とでもいうように.

 彼らの教義と行動に従うなら,「反宗教」の信者で無いものに対しては,どのような振舞いをしても許される,ことになる.勿論,法律によって万民に保証されている権利を侵害することはしないだろうが,それが公に成らないという確証があるのならどのような行動を取るかは不明である.勿論,「自分の宗教をもった人間」をどう捉えているかは,彼らに聞いて見ないと分からないのではあるが.

 彼らの危険性は,明白に宗教をもっている人間に対する行動だけには留まらない.宗教めいているという,「匂い」だけでも彼らが行動を取り・良くない噂を流すには十分なのである.それだけで,もう既に「異端」の疑いと場合によっては社会的な地位・職業に対する危機となりうる彼らの行動を招き寄せる可能性がある.

 彼らの『異端弾圧』は,不思議なことに同国人である日本人,それも若い年齢層に集中するケライがある.人目で,ガイジンと分かる人間は別な宗教をもっていることが当り前とされる.むしろ,ガイジンで仏教徒や神道の信者であると,驚異として受け止められる.

 

 

 

 

 

おまけ

 

原メモ、アイデアプロセッサフォーマット

 タ@3  
        日本人論 [1]   @3  
         社宅と団地における権力図式 [1]   @3  
        
日本人の生活感 [1]   @3  
        『旅の恥はかき捨て』という諺


   @3  
         個人対社会の図式 [1]   @3  
        
集団という幻想 [1]   @3  
         &人のものは俺のもの、俺のものは俺のもの [1]   @3  
         中心からのずれ、という認識 [1]   @3  
         日本家屋からの推論 [1]   @3  
          共同財産と個人所有財産という観念 [1]   @3  
         ホンネとタテマエの意味 [1]   @3  
         金と社会的地位の意味 [1]   @3  
        
その歴史的風土 [1]   @3  
         日本的経営の示すもの [1]   @3  
         日本的貴族、公家 [1]   @3  
         "実質的貴族階級並びに日本的社会構造 [1]   @3  
        
概観 [1]   @3  
         まとめ [1]   @3  
        

新たな展開 

 

同じく、原メモ        アイデアプロセッサフォーマット

 

 

[1]    日本人論     2 社宅と団地における権力図式     2
日本人の生活感     2 『旅の恥はかき捨て』という諺     J 個人対社会の図式     2
集団という幻想     2 &人のものは俺のもの、俺のものは俺のもの     2 中心からのずれ、という認識     2 日本家屋からの推論     2  共同財産と個人所有財産という観念     2 ホンネとタテマエの意味     2 金と社会的地位の意味     2
その歴史的風土     2 日本的経営の示すもの     2 日本的貴族、公家     2 "実質的貴族階級並びに日本的社会構造     2


概観     2 まとめ     2

新たな展開 

 

 

 

参考文献

 

ブルーバックス「集団の心理」             講談社

 

(end of contents. J)