2002年のコンピューター
近藤 敏郎
昨年、我々は信じられない出来事を経験した。現在(とは言っても、設計されたのはもう数年昔になる訳ではあるが、)の粋の集積である筈の木星探査船が異常事態に陥り、宇宙飛行士4人の消息が不明になったのだった。メディアをあれほど賑わせた事態の原因は今もって不明、一部事情通の間では自意識をもつに至ったスーパーコンピュータシステム統合型AI、宇宙船搭載のコンピュータの宇宙線対策シールドが不完全な為に、メモリ中にノイズが紛れ込み、パラノイア・分裂病に似たバグが発生し、それが成長し宇宙船そのものに影響を与えるにいたったのだという噂が流れてはいるが、それが真実であるかどうかは、宇宙船と地球とを隔てる距離と、製作の70パーセントを受け持った、業界最大のコンピュータメーカー・I*Mのこの件に関する情報管制のベールに遮られて定かではない。なお、この事件の直後から現在に至るまで、一部の宇宙飛行士達が無期限ストライキに入っており、宇宙飛行士のストのニュースを目にしたI*MのセールスマネージャーがNASA及びにロケット推進研究所周辺で目撃されるという事態が発生している、という事情通のもっぱらの噂である。
時は西暦2002年、1990年代初頭において、天井・限界が見えたかの用に思われていたコンピュータの世界ではあったが極小か技術が限界に達し、スーパーコンピュータ、メインフレーム、ミニコンで培われた技術が低コスト化し、普及し終った後、新たな展開を見せ、業界の方向性の一大変更が行なわれたのであった。
と、いう訳で、電気ガマ・洗濯機・アイロン・カメラ・腕時計・ボールペン・テレビなどの日常生活用品として、そして、NC加工機・CADなどといった様態で製造の為の道具として、ワープロ・スプレッドシート・電卓・電子手帳などという様態でビジネスの道具として、家庭用ゲーム機・パチンコなどの娯楽の面で、遊園地や駐車場などの裏方として、コンピュータは、西暦1992年の現在、社会の表側であると裏側であるに関わらず我々の生活のあらゆる側面に浸透し、日常的に使われている。これは、事実である。電話をとって見ても、留守番電話のメカニズムとして、電話交換機としてコンピュータは使われている。少なくとも、1992年の日本で暮らしている人間でコンピュータと全然縁が無い生活をしている人間は、存在しないと言い切っても決して過言ではない、だろう。過言ではないにも関わらず、「コンピュータ」に対して抱かれる思いは、
1 便利だし、無ければちょっと困るね。
2 興味があるけど難しくてちょっとね
3 あんなもん、おタクにまかせりゃいいじゃん
4 コンピュータは人間を駄目にするーっ!!!!
というように、一部の使える人間と、その他の大多数という両極端だったりする。改めて言うまでもないのだが、はっきりとは目には見えないにしろコンピュータの恩恵と言うものはほとんど全ての人間に、人類に貢献しているにも関わらず、である。
西暦2002年、今から10年後。過去を振り返って見るなら、1982年、8ビットのマイコンが全盛にあった時代であり、マッキントッシュはまだ世に出現しておらず、8086を使用した16ビットコンピュータがボチボチと出始めており、HDはオフコン・ミニコン専用であり、オーディオカセットテープが補助記憶メディアの主流であり、メモリはVRAMを含めて128Kという時代であった。こうして単純なスペックだけを羅列しても、現在の標準的な環境を知っている目から見ると、「何だったんだ? 高くて、使い難くて? 使えないんじゃないの? ゲーム専用なら許せるけど、それにしてもゲームマシンにしては高すぎるし、ソフトときたら? 」という、感想を、改めて、抱かざるを得ない。
更に10年を遡ると、西暦1972年、アップル][、ペット、タンディの時代で、高解像度グラフィクスというのが現在の標準的なパソコン画面の1/4の面積分で、搭載メモリ堂々の32K! おおーっ!! という時代になってしまう。
という、20年を振り返り、20年前から10年前に、10年前から現在に至った10年の技術及びに価格の変化というものをこれから先の10年に外挿するなら、現在の環境と言うものが朧気にしか見えない夢であったのと同様に2002年のコンピュータは我々の予想を裏切っている筈である。
が、しかし、である。ハードウエアの進歩、OSの普及(覚えておられるだろうか? 10年前、OSというのはマイナーな概念だったことを? )、非コマンドライン型ユーザーインターフェースなどという目玉はあるものの、この20年間の動きには飛躍は存在せず、一つの方向に基づいて、あるガイドラインに沿って動いてきたと言える。それは、軽薄短小という言葉で表される、より大きな機械の能力をより小さな機械で実現させるという方向性であり、スーパーコンピューター>メインフレームー>ミニコンー>パソコンー>電子文具という階層に沿った動きでもある。
ENIACがもっていた計算能力は、1992年の現在においては誰にでも、小学生のおコズカイで購入することが出来、ポケットに入れて持ち運びの出来る関数電卓・現在の代表的な電子文具となっている、ということが象徴的な事実であろう。
スーパーコンピュータを実現させ、より高度なスーパーコンピュータを実現させようという、技術の方向性が工業的に容易化され、一般化、低コスト化され、メインフレーム・ー>ミニコンー>パソコンー>電子文具というルートを通って、普及していくという図式である。
電子文具のレベルにまで達した技術は様々なバラエティに飛んだ製品に組み込まれ市場を賑わしているものの、オフコン・パソコンという個人ユーザーのレベルにおいては、アップル][、ペット、タンディというあの時代に、ワープロ専用機という例外はあるものの、そのバラエティが増えたとは曰、言い難いのも事実であろう。
システム手帳が一時期流行ったことがあったが、現在システム手帳を「有効」に活用しているという人間が現在、どの位いるのか? 少々疑問を抱いてしまう。ことに、システム手帳というハード(具体的にはカバーとホルダーという基本に用途に応じてフォーマットの異なるリーフ)が先走り、売らんかなという傾向にユーザーがシステム手帳を自分の生活に有効に組み紺でいくというソフトの2つの面が立ち後れ、やがては有功的な使い方よりも面倒くささが表に出てきて、現在は普通の手帳・電子手帳を使っているというのが、極一般的な流れなのでは無いだろうか? 現在も書店の文房具コーナーにはシステム手帳の様々なリーフを見かけることはあるのだが、かつてのブーム絶頂の頃の勢いのようなものはそこには、感じられないような気がする。
一世を風靡した感のあった京大式カードによる個人データベースを核となす情報整理手法も、現在ではあまり耳にしない。それほど当り前の常識となってしまったのか? という疑問には、多分、否定的な意見が出て来るのではないだろうか?
現在の、コンピュータ業界の流れは、今から20年ほど前も同様だったのだろうがハードウエアーが中心にあり、ソフトウエアというのは、「ハードのおまけ」というように見える。実際にコンピュータで何をやっているのか? コンピュータに何をやらせているのか?ということは、何というコンピュータのユーザーであるか? あるいは、OSに何を使っているのかということの影に隠れてあんまり表面には出てこなかったりする。加えて、同じ機種のユーザー同士ではどのソフトをもっているのかということがまず、第一で切手のコレクター間同様の会話がコンピュータのユーザー間で話されていたりする。
現状からの飛躍ということで、個人の日常生活にコンピュータが入って行くとしたなら個人の情報文具という形で、電子手帳や、固定的な用途にしか用いられない電子文具として普及し、やがてはそれらが統合化して行くという形態をとるのではないだろうか?
例えば、地下鉄の路線図及び時刻表がカード形式の電子文具となり、現在地と目的地と予定時間を入力すると、現在地から目的地までの乗り換え・料金・待ち時間・目的地到着時間などを出力してくれるような、単目的のコンピュータとして。勿論、気の効いたバリエーションとしてタクシー料金の目安、近くの宿泊可能なホテル等の情報が付いてるとか、電卓及びに予め登録済の住所録なども一緒に付いてるとか、色々と考えられるが...
この様な電子文具を現在のテクノロジーで製作使用とするなら、多分、数万台からの市場が存在するとしても採算の合うレベルでは1台に付き1万円から10数万円という発売単価になってしまうに違い無いし、ダイヤの改正などに伴い買い換えでまた幾らかをユーザーに負担させてしまうことになるだろう。電子手帳の拡張カード/プログラムカードのキャパシティでは賄い切れないだろうし、パソコンのソフトウエアとしてなら、趣味で作ってPDSとして配布というレベルでは問題はないだろうが、市販ソフトとしての販路は、あまり期待できそうにはない。
だが、この様な電子文具が安価に、例えば、現在営団地下鉄などで只で配布されている地下鉄の路線図のカード/パンフと同様の価格/時間で製作が可能となったなら、多分、誰もが財布の中にこのカード型の電子文具を入れておきたい/便利だと感じることだろう。
地下鉄の路線図というものは、殊更新しいものではなく、多分、地下鉄の世界で初めて登場したときに、時を同じくして登場したものではあろう。但、それに検索/予定を組み・補足的な情報を加えるというコンピュータにより実現される機能を追及することで、より能動的にユーザーに働きかける力をもたせることが出来るだろう。
現在のパソコン/家庭用ゲーム専用機の普及並びにコンピュータに対する一般の感情を考慮するとき、この様な形でスーパーコンピューター>パソコンー>電子文具という流れとは逆の向きに、ユーザーの要求を満たす方向で、電子文具ー>パソコンというフィードバックにより新しく生まれてくるソフトウエア群/ハードウエア群というものが期待できるのではないだろうか?
2002年のコンピュータとして、私が今現在考えているものの一つはのは、紙と鉛筆という形態のデスクトップ型コンピュータで、収納時には直径1センチ5ミリ程度長さ20センチの円筒系の軸に2枚のポリフィルムが巻きついているという形態を取り、使用時にはポリフィルムの1枚がスクリーンとなり、もう一枚がキーボードというか入力用のフィールドになる形態のコンピュータだったりする。重量は、トータルで1キロ程度で、補助記憶装置として蒲鉾型のカセットを軸の部分に差し込んで使用する。勿論、カラー発光型画面出力で、入力に際しては、指の接触及び入力用のペンを使用する。外部拡張様端子はモジュラージャック型、形態の異なる平面接触がたの端子を使用、スピーカは入力用/画面出力用のポリフィルムの一部を直接振動板として使用、またはステレオ音声入出力端子を経由。格納時には背広のポケットに無理無く収容可能、使用時は机の上にポリフィルムを展開し現在のデスクトップ型パソコン同様の入出力用面積(画面/キーボード)を確保する。基本的には、現在のラップトップ型同様、セカンドマシンとしての使用を想定、個人のオフィスで処理済のデータを基にした加工/表示処理並びに一次入力用端末として使用することを想定したモデル。
もう一つはポリフィルムの隅に2センチ四方程度のブラックボックスが付いたシール型のコンピュータ。入力並びに出力はポリフィルムを使用する。こちらは、不揮発性のラム/ロムに入力されたプログラムとポリフィルムからの入力に従って処理を行ない、音声/画面出力によりデータの処理を行なう形式の電子文具とパソコンとの中間的な用途を想定したモデル。
以上の2つのモデルに関しては、前者は営業/技術系のビジネスマンをユーザーとして想定、後者は極めて広いユーザーを想定(八百屋・魚屋からトラックドライバー・デパートの店員から学生に至るまで)したモデル。
勿論、現在の拡張端子の規格、ハードウエアの限界(殊にポリフィルムに画面出力と音声出力、入力の検出機能をもたせる、直径1.5の円筒系にMPU・ラム・ロム・インターフェース用のチップを実相する、電源装置を同様に組み込む、発熱の問題を処理するかなどなどクリアしなければならない技術的な関門と言うものは幾つも考えられる)並びに、現行機種との互換性をどの用に確保するかという様な販売/開発戦略等の現実的な問題が立ちはだかるであろうことは確かであるが、2002年と言うことで現在の技術的な方向性と技術進歩のテンポとを考慮すれば、実現が丸っきり不可能というレベルではないことは、確かであるように思える。
1992年現在においては、コンピュータに何が出来て出来ないのか、それすらも分からないという人間が、大多数を占めている。実際に使用している人間にとっても、潜在的な能力/有効性のほんの僅かな部分を利用しているのに過ぎない、のではないだろうか? それは、例えば、OSのユーザーインターフェースの論理的な構造と想定されている使用方法とは異なった使用方法を鵜呑みにするとか、慣習的な使用方法でのみ使用することに縛られているとか、『利用する側の問題』がその原因となっているようにも、私には思える。それは無知からくることもあるし、常識となっている知識が例えばROMベーシックの頃のアーキテクチャーを基にしていたりとか、「呪文」かなにかのようにコマンドを丸暗記していたりとか、古いシステムとの互換性を保つためのソフトウエア/データ資産の運用上の問題だったりすることもある、ように思われる。
2002年のコンピュータという想定が、ハードウエアに於てのみであるのなら、それは問題の片側だけをみて、判断を下すことになるだろう。高度なハードウエアの技術が現在のコンピュータを支えていることは疑いのない事実ではあるが、現在のコンピュータに伴う要求水準というものを緩和するのなら、ENIAC当時の技術水準でも現在と本質的には同等のコンピュータを製作するのは、決して不可能ではなく、コストが引き合わないというだけの問題になるのではないだろうか? 3秒で終えてしまう作業が1週間かかるというだけのことではないのだろうか?
林檎は幾ら大きくなっても、あるいは小さくなっても、甘くても酸っぱくても林檎である。赤い林檎もあれば緑の林檎もあるし、新鮮な林檎もあれば腐りかけている林檎もあるだろうが、すべて林檎という点においては本質的に同一である。ラム肉はラム肉だしキュウリはキュウリである。
コンピュータが何かの要求を満たすのには、ソフトウエアが必要である。これは言うまでもないことだ。又,ハードがないソフトウエアは,コンピュータとは別の次元のお話となる.
(この小論ではソフトについては論じないつもりではある。ビジョンをもっていない訳ではなく、又、改めて考察し論じたいと考えているからである。
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スーパーコンピュータをその発端とする流れをボトムアップと見るなら,電子文具をその発端とする反対の流れをトップダウンと見なすことは妥当であろう.技術的に何が可能であるかから発想するのがボトムアップであり,こーいうものが欲しいから発想するのがトップダウンである.
スーパーコンピュータを発端とする流れがひとまずの完成に達したというのなら,今度はトップダウンから発想する基礎が出来たというだけに過ぎないのでは無いだろうか?
10年前を振り返って見たとき,そこにあるのは何とか「使えない」コンピュータを「使いこなして」いこうとする工夫であり,努力であり,「これにも使えます」,「これも出来ます」だったと言えるのではないだろうか?
10年後を考えた時,そこに予見されるのは「想像もつかない使い方」をされているコンピュータであり,その詳細が見えて来ないのは我々の「想像力の限界」の為であろう.
となると,現在のコンピュータ(主にソフト)に要求されているのは,現在の技術的な限界に因われない想像力であり,「こーいうことが出来たらいいなぁ」という希望である.現実に因われない想像力,希望を人は「夢」・「空想」と呼んでいるようだが,夢を見ることが(勿論,眠ることではなく),よき未来を想像することが,10年前と10年後をつなぐことになるだろう.
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